証拠金
日本では2007年10月20日、東京都練馬区大泉学園町の陸上自衛隊朝霞訓練場において、作曲当時の射撃音に近い旧式のライフル(M1)を使用し、陸上自衛隊東部方面音楽隊他によって初演奏された。但し、この演奏会ではオーケストラではなく吹奏楽編成で演奏された。
なお、NHKで1980年に放送された音楽の広場においてこの曲が披露されたことがある(演奏はおそらく東京交響楽団。番組がスタジオ収録であったため、音楽で表現される戦況にあわせて照明を変化させるなど、視覚的効果を活かした演出が施されていた。
初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769年4月30日-1852年9月14日)はイギリスの軍人、政治家。外務大臣をつとめたリチャード・ウェルズリーは兄。ナポレオンとの戦いで軍功を重ね、最終的にワーテルローの戦いで打ち破ったことで知られる。通称は「鉄の公爵」(Iron Duke)。後に首相となる。愛馬はコペンハーゲン。
モーニングトン伯ギャレット・ウェルズリーとアン夫妻の四男としてダブリン(アイルランド)に生まれる。1781年、父の死に伴いブリュッセルに移住。ついでフランス西部アンジェのピニロール陸軍士官学校に入学する。
1783年に73連隊に入隊し、軍人としてのキャリアを開始させる。1790年にはアイルランド議会の議員に選出され、革命フランスとの開戦準備、カトリック教徒への参政権の付与などを主張する。1794年、初の実戦参加として、対仏連合軍傘下の軍人としてベルギー・オランダ戦線に加わり、ヨーク公フレデリックの退却作戦を支援する。
1797年にはカルカッタに赴任、ベンガル地方の治安警備を担当する。1799年の第四次マイソール戦争、1803年のマラータ同盟との戦闘などを経て頭角を顕し、1804年に本国よりナイトの爵位を贈られる。しかし、ナポレオン政権との対決を睨み、翌1805年自ら希望して帰国する。
帰国直後、ハノーファー遠征軍に参加。1806年にはイギリス議会の議員に選出され、同年ラングフォード卿の娘キャサリン・パクナムと結婚。翌1807年にはアイルランド大臣に就任する。同年コペンハーゲンに遠征し、ナポレオンと提携するデンマーク軍を撃破し、翌1808年中将に昇進した。
同年、イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに反抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援すべく、約9000の兵を率いて同地に下向する。初め半島西北端のコルーニャに上陸し、次いでリスボンに下向してジュノー指揮下のフランス軍を撃破。その後一旦帰国するが、その後のナポレオン本軍の半島侵攻とスペイン全土制圧を受け、1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。同年7月、イギリス軍・スペイン軍を率いて、タラベーラ・デ・ラ・レイナにて大激戦の末フランス軍を撃破。この時ナポレオンはウィーン駐留中であったが、この報に接し初めてウェルズリーの存在を強く意識したという。
その後もポルトガルを拠点にフランス軍への抵抗を続け、1810年にはリスボンに侵攻してきたフランス軍を撃退し、ポルトガル攻略を断念させた。1812年にはスペインにおけるフランス軍の勢力衰退を見て同国に侵攻し、マドリードを攻略して占領下に置くことに成功。その戦功をもって伯爵に任ぜられた。やがてモスクワ遠征の失敗などを経てナポレオンが四面楚歌に陥ると、半島におけるウェルズリーの英軍の勝利は決定的なものとなり、1813年にはピレネー山脈を越えてフランス領内に侵攻。1814年4月にトゥールーズ郊外にてナポレオン退位の報に接し、同年6月にイギリスに凱旋帰国。国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。
同年7月にはフランス駐在イギリス公使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議におけるカッスルリー外相の全権代理を務めた。ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行。1815年6月18日のワーテルローの戦いにおいて、ブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオンを撃破し、ついにその野望を最終的に打ち砕くに至った。
その後は政治家として活躍し、1828年には首相に就任した。ウェルズリーはイギリス最後の公爵位を持つ首相である(1814年に公爵位に叙爵)。首相としては1829年にカトリック解放令(イギリス・アイルランドでは国教会成立後、カトリック教徒は様々な差別を受けていた)を発したことで知られるが、その一方で保守政治を行うなど、評価は必ずしも一定ではない。旧式の軍隊に固執したことでクリミア戦争における負傷者を増やしたとして、フローレンス・ナイチンゲールなどからは否定的な評価を下されている。1971年から1991年にかけて用いられた5UKポンド紙幣に肖像が登場している。
他にオックスフォード大学の総長も勤めたことでも知られる。また、世界で初めて鉄道の開通式(1825年)に招かれた外国為替
でもあるが、ロケット号による死亡事故以降は大の鉄道嫌いになったとされる。
フランス革命期の衛星共和国(ふらんすかくめいきのえいせいきょうわこく)は、18世紀末から19世紀初頭にかけてのフランス革命戦争およびナポレオン戦争の過程で、フランス軍によって占領された地域に建国された共和国である。FX
はこれらの国々を姉妹共和国(しまいきょうわこく, republiques s?ur)と呼んだ。
フランス革命期の衛星共和国は北イタリアなどの地域において数多く建国された。それまでの君主制に代わって、自由と平等、特権階級の廃止といったフランス革命の理念が導入され、一定の支持を受けた。だが軍事や外交の面ではフランス共和国に依存する衛星国であり、フランスの戦争遂行のための兵站基地と化した。
フランス第一帝政期には、衛星共和国の大部分はフランス帝国に併合されるかイタリア王国に集約され消滅した。ナポレオン戦争終結後のウィーン会議の結果、衛星共和国のあった地域はブルボン家とハプスブルク家の支配下に復帰した。だが共和制の下で育まれた民族主義は1848年革命へと結実してゆく。
エジプト・シリア戦役(エジプト・シリアせんえき, The Campaign of Egypt and Syria)は、単にエジプト遠征(エジプトえんせい, The Expedition to Egypt)ともいい、1798年から1801年までフランス軍がエジプト・シリアへ遠征した戦役である。ナポレオン・ボナパルト率いる5万人のフランス軍は、エジプトに上陸し、3年間に渡ってエジプトの地元軍やイギリス軍、そしてエジプト・シリアを支配するオスマン帝国の軍と戦った。
ナポレオンがエジプトへと遠征したのは、大陸の制覇を進めるフランスにとって、海の向こう側にあって手を出すことができず、いわば目の上のこぶであったイギリスを牽制するためであった。インドに重要な植民地をもつイギリスは、植民地と本国とに連絡を取るに当たりエジプトを経由していた。そのため、エジプトを奪うことはイギリス本国とインド植民地、さらにインドと地中海の結びつきをなくすことができ、あわよくばインドの植民地を奪取することにもつながるため、戦略上重要と考えられた。
一方エジプトの側は、300年来オスマン帝国の統治下にあったが、長いFX
の間にイスタンブルの帝国政府が及ぼす支配力は衰えを見せており、エジプトは24に分かれた県を知事として支配するマムルークの有力者によって実質上牛耳られていた。チェルケス人などの非アラブ系の人々からなるマムルークたちは奴隷軍人としてカフカスの故郷からエジプトにやってきた外来者であったから、フランスはマムルークの支配からエジプトの民衆を解放し、オスマン帝国の正統な支配を助けるという名目を盾にエジプトに侵攻することとなった。
ピラミッドの戦い
『ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン』(ジャン・グロ)1798年7月3日、アブキールの港からエジプトに上陸したフランス軍は翌日には地中海岸の最重要都市アレクサンドリアを占領した。彼らはエジプトの首府カイロへ最短距離で行くために砂漠の真ん中を行軍してカイロに迫ると、7月21日にようやくたどり着いたカイロ近郊のナイル川河畔の村でエムバベで、待ち構えていたエジプトのマムルーク軍を打ち破った。
三大ピラミッドのあるギーザまでわずか15kmのこの地でピラミッドを望みながら行われたため「ピラミッドの戦い」という名で知られているこの戦闘において、きらびやかな衣装に身を包み、ショールを着込んで馬を駆り、ものすごい速さで迫り来る中世さながらマムルーク騎士に対し、銃剣を装備した歩兵を主体とし方陣隊形を組んだ近代的なフランス軍が圧勝を収めた。マムルークの突撃はフランス軍の一斉射撃の前に銃剣で固められた方陣の戦列を破ることができず敗走し、フランス軍は塹壕も瞬く間に突破してエジプト軍を殲滅した。戦闘はあまりにも至近距離で行われたため、「敵の衣装が我が軍の銃の、発火装置に引っかかり、敵の衣装に火がついた。我々の組む方陣の周りのばたばたと折り重なる敵の死体には炎が立ち、傷口から流れでる脂肪がその炎をますます燃えたたせた」とある従軍した兵士は語っている。1500騎のマムルークを壊滅させた激戦であったにもかかわらず、フランス軍の死傷者はわずか数十名であったという。
このときナポレオンが放ったとされる「兵士諸君、4000年の歴史が見下ろしている」という言葉は有名であるが、この言葉はセントヘレナ島での回想記が初出である。
ピラミッドの戦いに勝利したフランス軍は南進し、翌日カイロ市はフランス軍に降伏した。7月25日、ナポレオンはカイロに入城し、上陸からわずか3週間でエジプト征服をほぼ完了した。しかし、エジプトを掠め取られた格好になるオスマン帝国は当然のようにフランスに対して宣戦を布告して第二次対仏大同盟に参加し、さらにカイロ征服からわずか1週間後の8月1日に、ホレーショ・ネルソン率いる地中海艦隊がアブキールを守っていたフランスの艦隊を殲滅(アブキール湾の海戦)、フランス軍の補給と退路を奪いつつあった。また、上エジプト(エジプト南部)ではカイロから逃げ去ったマムルークたちが再起をはかり、抵抗を続けていた。フランス軍とカイロ市民らFX
との関係も、解放者と被解放者のようなものにはなりえず、カイロ入城からわずか3ヶ月後の10月21日にはカイロで暴動が起こってフランス兵300名が暴徒によって殺害され、エジプト人も2,500人以上が殺された。フランス軍が鎮圧のためにアズハル・モスクなどの宗教施設に攻撃を加えたこともエジプト人の反感を高めた。
フランス軍は上エジプト平定に別働隊を出す一方、オスマン軍を撃退するためにシリア地方へと北進し、翌1799年にパレスチナに入ってヤッファを占領したが、アッカの攻略に失敗し、撤退した。このときヤッファのフランス軍内ではペストが流行し、ナポレオンが大勢のペスト患者を置き去りにして見殺しにしてしまったことを現代の歴史家たちの間では非難されているが、一説にはアヘンを与えて安楽死させたといわれている。ナポレオン自身、後にその責任を問われることを考えて、自らが当時は触れることすら恐れられていたペスト患者を見舞う絵を描かせている。それが有名な『ヤッファのペスト患者を見舞うナポレオン』である。
そのころ、フランス本国でもイギリス、オーストリアがフランスに対して攻撃を再開していた。ナポレオンはオリエントでの作戦継続を断念し、フランスへの帰還を決意した。アブキールの陸戦でオスマン軍を撃退した後の8月22日、ナポレオンは少数の側近とともにひそかにエジプトを脱出し、あとには補給を絶たれ、現地人の抵抗と疫病に悩まされる残兵が残された。ナポレオンなき後、ドゼー率いる上エジプトの別働隊はマムルークの首領ムラード・ベイを降すことに成功したが、指揮官なきフランス軍はもはやイギリスとオスマン帝国の攻勢に対してかろうじて抵抗を続けるのが精一杯であった。1801年、2年間に渡る戦いの末、フランス軍の生き残り1万5000人はイギリス・オスマン帝国に降伏、フランスへと帰国した。